【1位】フォルクスワーゲン

フォルクスワーゲン

本社:ヴォルフスブルク

創業

極右政党ナチスの労働団体「ドイツ労働戦線」によって、1937年5月に設立された。著名デザイナーであるフェルディナント・ポルシェが設計を手掛けた大衆車が、創業の起点となった。

フェルディナント・ポルシェが設計

1933年に政権を握ったヒトラーは「国民車」フォルクスワーゲン(VW)の開発計画を発表。その設計を、天才デザイナーとして名を轟(とどろ)かせていたドイツ人のフェルディナント・ポルシェに発注する。

「快適で経済的な小型車」は、フェルディナント・ポルシェの長年の夢でもあった。彼は設計に没頭する。

試算では販売価格が1500マルク前後だった。これに対しヒトラーは「1000マルク以下」を厳命する。それでも当時の平均的な労働者の10カ月分の収入に相当する額だ。頭をしぼって行きついたのが、材料を節約できる流線形のデザインだった。「ビートル(かぶと虫)」の愛称はそこから生まれた。

1937年、ダイムラー・ベンツ社の手で1130CCの試作車がつくられ、テスト走行が始まった。だが翌年、ドイツはオーストリアを併合し、欧州に緊張が走る。そして1939年9月ポーランド侵攻。第二次大戦が始まった。

大衆車のはずだった「VWビートル」は、軍用車として急ピッチで生産される。指揮官車、不整地走行車、水陸両用車など、約七万台が戦場に送られた。

1945年5月、ドイツは無条件降伏した。国土は英、米、仏、ソの4カ国に占領された。

戦後

第二次大戦後の1949年、ドイツは東西の分裂国家として再出発した。

やがて東西対立が深まる中、西独には西側のパートナーとして「行政と経済の機能回復」が要請された。もともと産業基盤はあり、労働力の質が高かった西独は、米国の援助を受けてたちまち回復し、急速に伸び続ける。ダイムラー・ベンツ、フォルクスワーゲン、BMW、ポルシェなどの自動車産業は、その「奇跡の復興」のにない手だった。

VWビートルは世界中の大衆の心をつかみ、生産を伸ばしていく。1961年には年間生産が100万台を突破した。半分以上が輸出され、米国でも旋風を巻き起こす。米国の大型車文化に対置するものとして、インテリ層を中心に受け入れられたのだ。

1972年、米国のT型フォードが保持していた累計生産記録1500万7033台を、VWビートルが45年ぶりに破った。

2000年代の低迷と復活

2003~2006年に業績が低迷する。当時のVW経営陣は「我々はベンツになり、グループの高級車メーカーであるアウディをBMWにする」と豪語していた。最高級車ブランド「フェートン」を投入したが失敗に終わった。

また、VWとアウディの「プラットホーム(車の骨格)」を統合した。VW車の値段が高くなり、逆に『アウディ』から高級感がなくなる弊害が現れ、販売台数を落とした。

2000年代初めには長年にわたりシェア1位を保ってきた中国でトップの座をゼネラル・モーターズ(GM)に明け渡した。VWは旧型車が主力だったため、GMの新車攻勢に売り負けた。

業績低迷を打開すべくVWの改革は始まった。2007年1月に経営陣を刷新。そして、一見地味ではあるが、VWはプラットホーム戦略を見直した。少ない「プラットホーム」で多くの派生車を量産する戦略から、モジュール生産を強化することでコスト削減に成功した。

中国で急成長

中国で大成功した。北京五輪にあわせて、2005年から現地で「オリンピック・プログラム」と題する経営改善に取り組んだ。現地開発の新車投入や工場の稼働率向上により反転攻勢に出た。

2008年4月には中国で4番目の生産拠点となる南京工場も稼働させた。

スズキに20%出資

2010年1月、日本の小型車メーカー「スズキ」の株式19.9%を2224億円で取得。筆頭株主になった。この結果、グループ全体で世界の販売台数がトヨタ自動車グループを抜き、1位になった。

ウィンターコルン会長は「アジアで大きな前進ができる。開発や生産、販売で相乗効果を得ることは自動車メーカーにとって不可欠」と述べた。

【2位】BMW

BMW

本社:ミュンヘン

他のブランド:英ロールス・ロイス、英MINI(ミニ)

1916年、BMWは航空機用エンジンメーカーとして産声を上げた。青と白のエンブレムは、「青空に回転する飛行機のプロペラ」をかたどったもの。ちなみにBMWとは、ドイツ語で「バイエリッシュ・モトーレン・ヴェルケ(Bayerische Motoren Werke)」。直訳すると、「バイエルンのエンジン工場」だ。彼らの技術力に対するプライドには、強烈なものがある。

1994年、8億ポンドを投じて英ローバーを買収したものの、2000年にはわずか10ポンドでフェニックスに売却。ミニだけを手元に残し、高級車ブランド路線に舵を切り直した。

1981年9月、他の海外メーカーに先んじて、日本法人を設立した。それまでBMWのインポーター権(輸入代理権)を握っていたバルコム・トレーディング・カンパニーを買収、日本でのディーラー網構築に歴史的な一歩を踏み出した。

【3位】メルセデス・ベンツ

メルセデス・ベンツ

旧称:ダイムラー・ベンツ、ダイムラークライスラー

本社:シュトゥットガルト

世界で初めてガソリン自動車を完成させたのはドイツのカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーだというのが定説である。

1885(明治18)年11月10日、ドイツの技術者ゴットリープ・ダイムラーは、世界ではじめてガソリンエンジンを二輪車に取り付けることに成功した。世界初のオートバイの出現である。さらに、その翌年には、馬車を改造した本格的な四輪ガソリン自動車を完成させた。

奇しくも同じ年の7月2日、カール・ベンツはガソリン三輪車を製造する。マンハイムの路上を時速15キロの速力で走り抜け、人々の期待はいっせいにガソリン自動車へと向けられた。

投資家はその実用化に注目して資金を提供し、優秀な技術者たちは、両者の周辺へと集まってきた。

中でもダイムラーを高く評価したオーストリアの富豪エミール・イェリネックは、ダイムラー車のフランスなどにおける販売権を獲得する。フランスでのブランド名を自分の娘の名を取り、「メルセデス」と定めた。

ゴットリープ・ダイムラーの会社とカール・ベンツの会社は、第一次世界大戦を契機として経営難に陥った。そこで、両社が1926年に合併して「ダイムラー・ベンツ」ができた。

ダイムラーは1900年3月6日、66歳で死去。ベンツは1929年、85歳の高齢でこの世を去っていった。

自動車部門は1997年4月まで「メルセデスベンツ」という名前の別会社になっていた。

1990年代の拡大路線

1990年代以降、ユルゲン・シュレンプ会長が推し進めた自動車事業の拡大戦略は誤算が続き、当然メルセデス・ベンツにも影響は及んだ。

シュレンプ会長は米クライスラーを吸収合併し、三菱自動車に資本参加し、小型車「スマート」ブランドを立ち上げ、最高級大型乗用車「マイバッハ」ブランドを復活させた。

クライスラー買収後、相乗効果を得るため、メルセデス・ベンツとクライスラーの部品共通化などを検討した。しかし、ベンツの経営陣がクライスラーと部品を共通化することによって、高級車であるベンツのブランドに傷が付くことを懸念し、話は一向に進展しなかった。

自動車メーカー同士の提携や合併で最もコスト削減効果が期待される車台の共通化にしても、合併からかなりの時間が経過してから、「メルセデス・ベンツEクラス」の車台が「クライスラー300C」に採用されただけにとどまった。この間、クライスラーは米国での販売が低迷し、業績悪化が続いた。DCとしては、メルセデス・ベンツ部門がいくら稼いでもクライスラー部門の赤字が足を引っ張り、グループ全体としての業績低迷が続いた。

2007年、クライスラーを米投資ファンド、サーベラス・キャピタル・マネジメントに売却した。

【4位】ドイツ・テレコム

欧州最大の通信会社。元国営企業。1995年1月に民営化されたが、その後も株式はドイツ連邦政府が100%持っていた。「保守的」といわれ、コレクトコールなど自社の利益にならない部門はやりたがらないと批判されてきた。

1996年11月、ドイツ、ニューヨーク、東京など8市場に同時上場した。2000年7月、アメリカの携帯電話大手ボイスストリーム・ワイヤレスを買収すると発表した。米議会などでは、独政府が58%の株を保有するドイツ・テレコムの「独占体質」を問題視し、米への参入を阻もうという動きが出た。

現在は、米携帯電話3位の「Tモバイル」の親会社として君臨している。2018には年、米4位でソフトバンク傘下だった米スプリントを買収した。

【5位】アリアンツ

損害保険、生命保険、資産運用の三つの業務を柱としている。保険会社として世界第2位。1位は中国平安保険、3位アクサ(フランス)、4位は日本郵政グループ。

稼ぎ頭は損害保険部門。70カ国以上にオフィスを有し、グローバルな事業展開をしている。

グループ内に二つの資産運用会社を持つ。「ピムコ」(パシフィック・インベストメント・マネジメント)と「アリアンツ・グローバル・インベスターズ」(AGI)である。

ピムコの資産運用は、債券を中心としたアクティブ運用(目安となるベンチマークを上回る運用成績を目指す)が中心だ。「債券投資の神様」と呼ばれたビル・グロース氏が創業した。

2015年にマッキンゼー出身のオリバー・ベイト氏がCEOに就任。

2017年にフランスの信用保険会社ユーラーヘルメスを買収。英国の大手保険会社、LV(リバプール・ビクトリア)の株式も49%取得した。

【6位】ユニパー

ドイツ最大の電力・ガス会社。

独エネルギー大手「エーオン」の火力発電部門が分離・独立(スピンオフ)し、2016年に誕生した。同年9月12日、フランクフルト市場に株式を上場。エーオンは保有株式の53%を放出した。

当時のドイツでは、再生エネルギーの普及によって、火力発電事業の収益性が悪化していた。一部の火力発電所では、運転コストも回収できておらず、電力事業者が発電所を閉鎖する例も増えていた。

エーオンは当初、原発事業もユニパーに担当させる方針だった。しかし、ドイツ政府(メルケル政権)が「電力会社が原発を切り離しても、使用済み核燃料の再処理などの費用を払う責任は親会社に残る」という法律を施行させたため、エーオンは泣く泣く原発を自社内に残した。

2017年、フィンランドの国営電力フォータム(フォートゥム/Fortum)が、買収に名乗りを挙げた。段階的に株を買い取り、2020年8月には75%の株を握った。

2022年、ロシアによるウクライナ侵略を受けて、ロシアの天然ガスの供給が停止された。ロシア産ガスに依存していたユニパーは経営難に陥る。これを受けて、ドイツ政府がユニパーを国有化。フォータムなどから全ての株式を買い取った。

【7位】DHLグループ(ドイツポスト)

ドイツの郵便局。もともと国営だったが、民営化された。1490年の事業創設から500年余の歴史を持つ。

民営化の流れ

1980年代の英国・サッチャー政権で、ブリティッシュ・テレコムや英国電力公社などの国営事業の民営化を進め、その流れがドイツに波及した。

ドイツでは、「郵便」「貯金」「通信」の3つの事業が、国営で行われていた。中央官庁である「郵電省」が手掛けており、「郵政3事業」または「郵電3事業」と呼ばれていた。

郵政三事業は肥大化し、通信の黒字で他の事業の赤字を埋める不透明な収支にも批判の声が上がった。

3つの公社に(1989年)

1989年に第1次郵政事業改革が行われ、三事業が郵電省から公社となった。同時に、それまで一体であった「郵便」「貯金」「通信」の3つに分割された。

公社から株式会社に(1995年)

「ドイツポスト」「ドイツ銀行」「ドイツ・テレコム」

1995年の第2次郵政改革で3事業で、3つの公社がそれぞれ株式会社化された。郵便は「ドイツポスト」に、貯金(郵貯)は「ドイツ銀行」に、通信は「ドイツ・テレコム」になった。郵電省は1997年末をもって廃止された。

同時に、宅配便と大量印刷物(ダイレクトメール)の一部自由化が行われた。1998年からは、50グラム超のダイレクトメールと200グラム超の大型書簡でも民間企業の参入が認められるようになった。即日配達のエクスプレスメール・サービスも、この時自由化の対象となった。

この結果、宅配便市場ではユナイテッド・パーセル・サービス(UPS)やフェデラル・エクスプレス(FedEx)、TPGなどの外国勢も参入し、新規参入業者が急速にシェアを拡大した。

株式会社になってからのドイツ・ポスト(郵便)やポスト・バンク(郵便貯金)の変身ぶりは顕著だった。新規事業への参入が可能になったドイツ・ポストは「ポスト・プラス」と呼ぶ新型店舗を全国に展開した。店内には新聞・雑誌から食料品、日曜雑貨、酒、たばこまで各種の商品が並び、集客効果を上げた。

民営化に向けて、効率性を追求したことで不採算店舗の閉鎖も避けられなかった。国営時代に全国に2万か所以上あった郵便局は大幅に減った。

ドイツ・ポストは身近な店舗の閉鎖による利用者の不便を解消するため、地元のスーパーや食料品店などとフランチャイズ契約を結び、窓口業務を委託するようになった。業務委託店では、国営時代よりもかえって営業時間が長くなり、利用者の利便性が増したケースも多い。

DHL買収(2000年)

株式会社化されたドイツポストは、アメリカの大手運輸会社DHLを買収した。それによってグローバル競争の足がかりを築いた。2000年に上場した。

まず25%の株式を取得。2000年には他の大株主(日本航空など)から株を取得して、50%超の過半数を押さえ、経営権を握った。

その後も積極的な海外M&Aを進めた。2003年にエアボーン、2005年にはエクセルと、世界的な大手を矢継ぎ早に買収した。米国のUPS、フェデックスを凌駕(りょうが)する巨大物流会社になった。「郵政民営化の成功例」として高く評価されるようになった。